福島 諭 / satoshi fukushima

2013年11月29日:今年もいよいよ冬に向う。そんな天気がここ数日続いている。明け方にバタバタと霰が窓を叩く音がして目を覚ました。昨日から駅のホームでは朝の特急が運休予定だと掲示されていたので、29日の朝はいつもより少し早い電車に乗った。到着駅のひとつ前の駅ではホームが真っ白になっていた。

今日は濱地潤一さんが新潟に来られる日だ。積もってもすぐに融けてしまうほどの雪だが、空気が冷たい事には変わりない。新潟は雪が降っています、とメールした。

29日は日中に自分の時間はなく、夜も移動が重なって結局濱地さんとは再会できない。ただ、濱地さんからは《変容の対象》の初演に向けて打ち合わせを、という話があったので深夜に譜面を見ながら2時間弱電話で話しをした。奏者、会場の響き、本番へ向けての配慮できるあらゆる可能性を話しあった。



2013年11月30日:早朝6時の10分前に起き出し、スーツに着替える。今日はこれから滋賀県へ向って飛谷謙介(Mimiz)さん、梅景梢さんの結婚披露宴に参加する予定だった。新幹線で新潟を抜けると雲ひとつない空が広がっており、静岡では雪をかぶった富士山もはっきり見えた。同じ日本でこれだけ違うものかと愕然とする。



京都駅について、追分駅で合流しようと言う鈴木悦久さんと一度連絡をとり、お互い順調に移動できているようなので予定通りに追分駅へ向った。追分駅に車が入れず少し時間を取ったが無事に鈴木さんと合流。何年ぶりかという話しになった。いつか名古屋であったよね、あぁ、あの台風のときね。それがいつのイベントだったかという記憶は曖昧だったけれど、そのときに間違いはなさそうだった。Mimizの3人で手羽先を食べたのを思い出した。(2012年9月29-30日)
結婚披露宴で余興をしなかった事がない、という鈴木さんと、余興など考えた事もない自分とで移動中、車内であれこれ可能性を話し合った。ある程度はどのようになっても良いように準備はしてきたが、かつてMimizで作った「今日と明日」という唯一歌モノの曲を、鈴木さんが替え歌バージョンで歌うという事に数日前に決定した時点でまぁ大丈夫だろう、という気にはなっていた。会場は比叡山の上にあるという。晴れ渡った空と太陽の光が車内に入ってチラチラとしている、眼下には琵琶湖が見える。晴れて良かったな、と素直に思えた。「比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺、、」と中学の頃丸暗記したキーワードを唐突につぶやいたら鈴木さんは、なにそれ、と言う。僕は和歌山の高野山にもいつか行くのかな、などとぼんやり考えていた。

飛谷謙介さん、梅景梢さんはIAMASで知り合っているので、披露宴にはIAMAS時代の顔見知りが多く招かれていた。また撮影記録班に池田泰教さん、本間無量さん、高橋志津夫さん、とこちらもIAMAS映像班で固めてあってますますIAMAS色は強く、まるで同級会、個人的にもなんだか嬉しかった。他愛もない話題のひとつに新幹線での忘れ物の話があって、忘れた時に注意する事、すぐにすべき事などナデガタ・インスタント・パーティーの山城さんがとても詳しかったのがなんだかおかしかった。宴席もとても柔らかい雰囲気だった、飛谷くん梢さんの人徳だろう。お二人に関係する音源を使用した余興もなんとか無事に終わり、お二人のこれからの幸せを願った。
披露宴後も2次会、3次会、ホテルで4次会と続き深夜の2時半まで楽しい時間だった。笑顔で聞いているだけでいろんな話が飛び交った。IAMASを卒業してまるで数日のようにみんな変わってないなと思ったけれど、もう10年も経っているのかと思ったら不思議だった。いつでもこうして集まれるような気もしたが、それはもうずっと先かもしれない。

3次会中に濱地潤一さんから「《変容の対象》2012年版抜粋、無事に初演されました。本番が一番いい演奏でした。」とメールをいただく。飛谷くんもみんなも喜んでくれた。"for T"と冒頭文に書いた今年(2013年)の《変容の対象》11月についての話題も出て、飛谷くんがありがとうと言ってくれた。《変容の対象》は作曲中はあまり意味が固定しすぎないようにも配慮するから、Mimizのblogにも最低限の情報しか載せないのだけど、"for T"のTはこれから夫婦となる飛谷家のTのつもりで書いていた。だから飛谷くんblogを読んで分かってくれていたのね、という気恥ずかしさもあった。これは《変容の対象》では今までやった事のないこと、"ある特定の人のために曲を書いてみる"という試みでもだった。実は濱地さんにも"for T"の意味は具体的には伝えていない。でも今月この結婚式があることは伝えてあるし、察している気配もあったので、そのまま言わずに進めた。来年初演できればとあらためて思った。
解散後シャワーを浴びて、2時間ほど仮眠してホテルを出発。早朝は滋賀もとても寒く感じられた。



2013年12月01日:移動中に今年の《変容の対象》2013年版のこれまでできた曲を1月から11月まで通して聴いた。各曲の表情に豊かなバリエーションが感じられた。

京都駅を予定通りに出発、東京で乗り換え燕三条へ。確かにあまり寝てはいなかったが、こちらは順調です、と途中に濱地さんへメールするほど順調だった。そして予定通りに燕三条駅へ到着。しかしホームに降り際に財布を探したがどこにもない。頭が真っ白になってしまった。一瞬でいろいろ考えて荷物をホームにおいて席まで戻ろうとしたけど、いや、もし閉まったら荷物とバラバラになってもっとだめだ、では荷物を持って席まで戻れるか? いや発車ベルが鳴っている、無理だ。では新潟まで乗ってしまうか、しかし、ここまで迎えにきてもらっているので混乱が広がるし、財布がひょっとしたら荷物にまぎれているかもしれない。観念してホームに残った。まさか今日新幹線に忘れ物をするとは思わなかった。披露宴での山城君の話しを思い出して、駅員さんにできるだけ早く報告する。乗った席の番号も運良く覚えていたので、それも伝えた。それでも20分先にならないと分からないと言う。何とも言えない時間だった。最悪の事態も想像して気持も重くなった。しかし幸いにも財布は届け出があったということで新潟駅で確保できたという。やっと改札を出ることができた、が、予定がすっかり狂ってしまった。濱地さんへお詫びの電話を入れる。

財布には免許証も入っていたので、運転ができない。新潟駅まで父がスケジュールの合間をぬって送ってくれた。車中では昨日の初演の様子などを話してくれた。
新潟駅で走り回ってなんとか財布を受け取ることができた。渡される前に「ご本人を証明できるものはありますか?」と聞かれたので、財布の中に免許証がありますので確認してください、といった。そうですか、という感じで少しお洒落に微笑んだ初老の職員は、免許証と見比べ「はい、大丈夫ですね。どうぞ。」と渡してくれた。その厳しさと柔らかさが同居した感じをどこかで知っている気がしたが、高校の頃の英語の教師かな、などと思いながら財布を受け取った。

駅の万代口まで走ったが、既に濱地さんは待っていて、とても申し訳なく思った。濱地さんは笑顔で挨拶、握手をしてくれた。穏やかな様子に少しは救われたが、僕は苦笑いしかできなかった。父と別れ車に乗り込み、新潟市北区文化会館へ向った。そこの練習室で録音会をする予定だった。車中で昨日の初演の事や僕からは結婚式の様子などを話した。
会場には90分ほど遅刻して到着。天井も高い場所だったので、響きもあって濱地さんも気に入ってくれたようだった。録音する内容を確認して、大体の予定を組み直した。




濱地さんはまず《双晶I》(仮)の演奏をしてくれた。今年、濱地さんからの委嘱で作曲したAltoSaxophoneのソロ曲である。フラジオが多発する箇所の難しさなども解説してくれた。濱地さん自身はまだ演奏に不満げであったが、順調にリアライズされている様子を心強く思った。また、濱地さんのサクソフォンの音がなんだか益々生き生きとなっている様子が伝わってきて、じんわりと嬉しい感動があった。今回の録音はほとんど、濱地さんの演奏を録音するのに徹したが、濱地さんの楽曲である《contempt》のAltoSaxophoneバーションの録音のみコンピュータのリアルタイム処理で参加した。久しぶりに濱地さんと合わせるきがして何となく最初は緊張もしたが、歩み寄り方や突き放し方の間合いをだんだん思い出して徐々に集中していった。一瞬一瞬で行われている情報の交換の語法はいくつかの種類があるが、《変容の対象》を通して明確になってきている語法とほとんど変わらないとも感じられた。約20分間の演奏もあっという間だった。《contempt》が終わり、最後の濱地さんのアイディアを録音しようとした頃に、約束していた高橋悠さん香苗さんも入ってこられた。にっこり軽く挨拶をして、録音を進めた。豊かな特殊奏法満載の演奏、集中の一発取りで無事に終了した。

会場をあとにして高橋夫婦も車に同乗し4人で新潟駅周辺に向う。せっかくの機会だから濱地さんと夕ご飯でもということになっていた。高橋悠さん香苗さんの他、正福寺の笠原円秀さん香織さんも参加された。また去年の《変容の対象》2011年版初演をしてくださったピアニストの石井朋子さんも仕事の関係で遅れたものの参加され、話しに花が咲いた。 思えば高橋夫婦に再会し、円秀さんらと新潟で知り合ったのは2004年から2005年くらいで、それからイベントを通してこうして時間を共有する機会も増えた。ピアニストの石井朋子さんもソロの他、2004年にベルガルモを結成して活動を開始されており、いまでは大変人気のトリオとなっている。音楽活動、特に《変容の対象》の初演を通じてこうしてまた接点が生まれている事を素直に喜ばしく思った。こうした繋がりは普段の日常とは違った速度で進んでいくもののようで不思議な感覚になるが今後も大切にしていきたい時間だと感じる。

お酒は飲まなかったがなんだか気分は良かった。普段より上気したような、そういう様子を察してか濱地さんは、福島さん、ほとんど寝ておらんのでしょう 疲れたのでしょう。という。録音会も終わってほっとしたんです、と笑って答えた。
円秀さんが、昨日の《変容の対象》の初演のあとに、濱地さんがインタビューに答えて「構想では12年続けることになっています。」と答えていたのを受けて、福島さんは来年和歌山に行くべきです、と仰っていたのが印象的だった。なぜですか、というと、来年で6年目、12年の折返しですから。とのことだった。お互いの土地の気候を知っておくべきでしょう?

確かにな、と思い、高野山、、とまた小さくつぶやいた。



2013年12月02日:妻と娘と家族3人で移動して、お昼頃に濱地潤一さんと新潟駅周辺で合流、空港近くのお店で昼食を食べた。1歳4ヶ月になる娘はそれまで車で寝ていたが、起きたら知らない人がいるのを見てしばらくもじもじしていた。濱地さんは気さくに話しかけたりしていたが、昨日の録音会での曲の打ち合わせ等も少し進めた。
空港まで行き、出発までの時間濱地さんと会話。エントランスにはよく日の光が入ってきていた。ここ数日は予報では雪だったのだけど、なぜか比較的暖かい日になった。娘ははじめての空港に上機嫌で寝転がったり、けたけたと笑ったりしている。そんな姿を見て濱地さんは、自由について少し自嘲気味に、しかしにこやかにつぶやいていた。
僕らの求めている自由とは? 一瞬、我々はセリーのような制約の中に一種の自由があることは知っている、などという方向に意識が行きそうになったが、少し違う気がしたのでそれ以上考えるのはやめた。

時間も近づき濱地さんは搭乗口へ。まだいろいろ話さなければいけないものもある気がしたが、まぁまた《変容の対象》などでやりとりは続くのだし、ひとまずお疲れさまでした、という感じで握手。解散。

今回は飛行機が飛び立つのを見ようという気になり、空港の屋上から離陸を見守った。晴れてはいたが、新潟の冬らしい重そうな雲もたくさんあって、切れ間から太めの陽光がもれ出していた。飛行機が滑走路に向って移動している時に、日本海側に目をやると小さな虹が発見できた。濱地さん虹ですよ。

離陸した飛行機を見送りながら、娘はぶぉぉとそのジェット音を真似ていた。















(2013年12月24日記)