長嶋りかこ著『色と形のずっと手前で』
(2024年 村畑出版)
長嶋りかこさんの『色と形のずっと手前で』を拝読して、しばらくこの心に留まった感触を確かめるように日々を過ごした。冷静に考えてみればここで綴られているものは長嶋さん"個人"の経験、特に出産に纏わる出来事と、それを通して開かれていった多くの意識の変容である。あえて"個人"と書いたが、それでもここでは出産を経験し母となっていく女性の多くが共感できる普遍的な出来事を含んでいるはずである。そうした、命の繋がりについての根本的な生命の不思議が通底する中で、グラフィックデザイナーとしての長嶋さんの「私」が社会に感じる違和感が上書きされていく。「私は産後から"私が私のままではいられない"毎日を生きている。いやそれ以前から、"男"のように働き、"私"のように働くということが今までできていなかった。」(p191)そのような気付きが語られることには正直驚きを隠せない。このような視点は、こうした仕事が今だに極めて"男性的な社会"の上に成り立っていることを示すと同時に、個人のアイデンティティに深く関与し得るものなのかと想像させられもするからだ。
これとはまた別の視点ではあるかもしれないが、私は、男性である「私」自身の自己に対する、認識の揺らぎというものを感じたことがある。これまでの人生で私は、自ら望んで「私」であるために自己実現を目指し、私が「私」であることを疑わずに生きてきたひとりだ。しかし、ある日、父の演奏する尺八の間合いに「私」と同質の振る舞いを感じ自己のアイデンティティが大きく揺らぐ経験をした。その日以来、私は「私」という囲いをやや疑い始めている。「私」という枠組みが、いつも現代音楽に行き止まりを提示するのなら、「私」という枠組みから滲み出る何かについてこそ目を凝らす必要があると感じているのである。
長嶋りかこさんの文章を拝読して、男性である私が受け取り、共感し、未来に対してどれだけの言葉を発することができるだろうかと想像してみる。「多様性」が叫ばれる昨今に、少なくとも私自身は明確に何か言葉を発することはできなかった。しかしこの書籍は、そのある種大衆性を帯びた「多様性」というキーワードのずっと手前においても、改めて見つめ直してみる事柄がまだまだ沢山あるはずだと気づかせてくれる。一般に我々のお互いの違いについて、男性的役割とか女性性だとか互いを分け隔てている概念は山ほどある。一見、それがあまりにも当たり前に存在している中では、周りのみんなは等しく「私」とは異なる存在で、多様でしかあり得ない。ここでは常に、「あなた」は「私」とは異なる存在として互いに分断されているとさえ感じられる。しかし、果たして生とはそこまで孤独なのだろうか。例えば長嶋りかこさんがお子さんとの関係の中で見つけた日々の驚きや無垢さ愛おしさは、ひるがえってグラフィックデザイナーとしての長嶋さんへ力強く照射されているようにも読めた。立場の違う存在の間に見られる意識の滲みにこそ目を凝らしてみたい。そのように感じさせてくれるのは、長嶋りかこさんがその感性と可能な限りの正直さで差し出してくれた文章の、そのエモーションに寄るところが大きいと思う。その勇気に共感し、同時代を生きる私たちが、互いに分断しない心のあり方について想いを形にしていきたい。
2024年7月29日 福島諭

