+   《変容の対象》2009年版


楽譜 / scores
※楽譜のsaxophoneパートは全て In C 表記。
サンプル音源 / sound sample

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総括 / summary +

 作曲: 福島諭 + 濱地潤一
楽譜清書協力: 唐沢貴美穂


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差出人: fukushima satoshi
日時: 2010年1月29日 00:43:07JST
宛先: 濱地 潤一
件名: 《変容の対象》2009総括アンケート。

濱地潤一さま

いつもお世話になっております。
今日は少しいろいろメールさせてもらうかもしれません。 お時間があるときでいいのでお返事いただければ幸いです。 まずは、《変容の対象》の去年の総括をしたいと思っています。以下のアンケートに お答えいただき、お時間あるときにご返信いただければと思います。

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《変容の対象》2009年を終えて。アンケート。(福島ー>濱地)

1年間お疲れ様でした。以下、1年間を振り返って幾つかの質問をさせてください。今後の参考にしたいと考えています。 また回答は何らかの形で公開する予定です。非公開を希望するコメント等ありましたら改めてお知らせください。


(a)12の小曲を通じて一番好みの曲は何月ですか。

(b)12の小曲を通じて一番好まない曲は何月ですか。

(c)好みの問題とはまた別にして特に印象に残っている月はありますか。
   もしあればそれは何月で、なぜ印象に残っているのでしょうか。

(d)こうした形の共同作曲における利点があるとすればそれは何だったでしょうか。

(e)こうした形の共同作曲における難点があるとすればそれは何だったでしょうか。

(f)今後、この《変容の対象》に期待することは何でしょうか。

(g)僕自身は作業を進める上で、書いた内容を濱地さんへ言葉でも伝えるべきか悩むときもありました。2009年は結局あまり言葉をお伝えせずに作業を進めることが多かったと思います。《変容の対象》の進め方として言葉の問題をどのように考えますか。

以上です。よろしくお願いいたします。

福島諭。
**********(2010年1月29日のメールより抜粋)
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差出人: "hamaji"
日時: 2010年2月1日 16:18:12JST
宛先: "fukushima satoshi"
件名: Re: 《変容の対象》2009総括アンケート。

福島諭様

  アンケート応答です。
よろしくお願いします。


(a)12の小曲を通じて一番好みの曲は何月ですか。

  1月と11月です。この2曲は何か共通性を感じます。意図したものではないのに。その理由で。


  (b)12の小曲を通じて一番好まない曲は何月ですか。

  3月です。自分が曲冒頭でミスを犯しているから。でも後半はとても心を動かされます。


  (c)好みの問題とはまた別にして特に印象に残っている月はありますか。
   もしあればそれは何月で、なぜ印象に残っているのでしょうか。

  5月と8月です。理由は5月は汎用性の高い技法の獲得を得たことと、自分でも意外なアプローチを冒頭から挿入できたので。8月は聴取感が。


(d)こうした形の共同作曲における利点があるとすればそれは何だったでしょうか。

  他者が提示した音の組織の意味を考えることから自らの音の組織の根拠やコンセプトの発見、学習が為されること。何より自己完結を許さないこの作曲方法は想定外のフォルムを提示することがままあるので、驚きに満ちています。そして常に一定の緊張が担保されていること。それは永久運動のごとく感じられます。作曲という行為を良い意味で「強いる」ことがエンジンとなっていると感じます。


(e)こうした形の共同作曲における難点があるとすればそれは何だったでしょうか。

   いまのところ難点は感じません。


(f)今後、この《変容の対象》に期待することは何でしょうか。

   可能な限り継続をゆるされること。経験から、この作品群は自身の作曲作品に直接フィードバックし、機能することが明確なので。


(g)僕自身は作業を進める上で、書いた内容を濱地さんへ言葉でも伝えるべきか悩むときもありました。2009年は結局あまり言葉をお伝えせずに作業を進めることが多かったと思います。《変容の対象》の進め方として言葉の問題をどのように考えますか。

   言葉の問題は事あるごとに意識しました。音の組織の成り立ちを言葉で伝えるべきか、そうでないか。音の組織について、言葉で説明可能な場合、相手に伝えるべき時もあると判断した時はそれを伝えるようにしたと思いますが、これについては未だそれが良い方向に機能するかは正直わかりません。譜面から得られる情報のみをもって解釈を委ねるべきことのほうが圧倒的に多いように感じるのも事実のような気もしますし。これはこの作曲方法の特殊性に起因するので、答えは無いのかもしれませんね。

  2010・2月1日 濱地潤一(2010年2月01日のメールより抜粋)





+ 参考文章 『電子音響室内楽 「Ar」』プログラム・ノートより (2009年7月25日)

演奏会『電子音響室内楽 「Ar」』のプログラム・ノートより、以下《変容の対象》に関係する箇所を抜粋する。 演奏会は2009年7月25日に新潟県立近代美術館 2階ギャラリーにて行われた。

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《 変容の対象 》についてのノート


       去年の末、作曲家の福島諭さんからこんな提案を受けた。一月を区切りとして1小節ずつ、交互に作曲して全12曲、1年を通じて作曲するというもの。 最初のアイディアの段階では「即興」を一月のタームで為すとどうなるだろうか、、、というような提案だったと記憶している。「即興」自体、演奏者として福島さんも私も互いに、あるいは独自に、ある経験を通過していて、そのイデア「即興を1月のタームで」というものに、瞬時に納得と、ある完成されたイメージを抱いた。完成といっても経験則によるフォルムにしかその時は過ぎないが、そのフォルム自体が相互誤解を含めて理解の萌芽に繋がると言っても言い過ぎではないし、実際に「即興」という表現にはそれが内包されている。例えば「即興」はそのフォルムさえも否定するし、構造、構築さえ拒絶すると言ったとして、私には世迷言に過ぎない。フォルムを否定するということ自体がフォルムを形成するし、脱構築自体がその時点で既に構築を形成し始めている。  実際の「即興」の場では圧縮された情報が錯綜し、高密度に時間が進行している。その圧縮された時間進行を極度に延ばしてみてはどうか。それが福島さんの最初の問いであったように思う。時間芸術とも呼ばれる音楽。その時間の遅延による効果と機能、「即興」という芸術がそれらに干渉された時、どんな姿を現すのか。私は1も2もなく賛同の返事を送った。「即興」と「作曲」の境界、もしくはその差異、「それは」違うのか、違わないのか、、、それとも、、、そんなことが頭をよぎった。

 こうして「変容の対象」は2009年の元旦からスタートしたのだった。

 最初の小節は福島さんから。当初のルールとして、1・お互い交互に作曲する。2・作曲された小節は譜面に定着し、相手に渡した時点で変更は出来ない。3・その月の最終日に強制的にその月の作品は完成とする。4・新たな約束事はその月の初めに追加する。約束事の削除も同じく。等であった。実際に譜面に音を定着する行為を通して、お互いのなかに更なる欲求、衝動が芽生えていった。それは細部、全体を俯瞰可能な充分な時間を与えられたことにもよるし、交互に作曲するという、謂わば特殊な作曲行為にも関係していた。作曲という行為は極めて私的な行為だと言い切っても良いが、その私的な行為、本来なら一人の内部で完結する類の行為が、他者からの影響を受け、完結することを許されない代わりに、新たなものを得るというこの作曲行為がもたらすものが次第に、日々明確に顕在化しつつある。  遡って、最初の二月はお互いに独立した小節を譜面に定着していった。
参考に、2月の約束として
 (1)楽器は福島諭はPiano、濱地潤一はSaxを使う。
 (2)それぞれ自分の楽器を1小節ずつ交互に作曲していく。
   (お互いの音が同時に鳴ることはない。)
 (3)1小節の拍子、テンポは任意に変更できる、楽譜に記入していく。
 (4)作曲した小節は相手に渡した時点で固定され後に削除はできない。
 つまり自身が書く音の造形は前の小節の他者の造形に影響されはするが、その担当小節には他者の音が介在しないということになる。しかしながらその前の小節から受ける影響は巨大で、切実なものをもたらす、ということがわかるのに時間はかからなった。ひどくシンプルに言えば第1小節の第1音が始まった瞬間からその音に支配される感覚を持つということだ。結論から言うと、そこに不自由さは実は皆無だった。それどころか、その支配される音の造形が新たな「創造」のengineとなって結果的に思考の停滞を一時的に招いたとしても、最後には強力に機能し始めることを何度も経験した。それは「即興」をリアルタイムで演奏する感覚と断絶しているか。自分にはまったくそうは感じられなかった。乖離感すら持たず、なだらかに繋がっているとしか思えなかった。
 3月からは新たに自分からの提案として、前の他者の1小節に限り干渉を許す。という約束事を付け加えさせてもらった。
  3月からの約束
 (1)楽器は福島諭はPiano、濱地潤一はSaxを使う。
 (2)それぞれ自分の楽器を交互に作曲していく。
    1小節だけ遡って相手の小節に自分の楽器パートも書き込むことができることとし、
     最大2小節の作曲を行うことができる。
 (3)自分が新たに書き加える小節の拍子、テンポは任意に変更できる。楽譜に記入していく。
 (4)作曲した小節は相手に渡した時点で固定され後に削除はできない。
 これが、前述の「実際に譜面に音を定着する行為を通して、お互いのなかに更なる欲求、衝動が芽生えていった」ということにつながった顕著な例の一つだ。実際、福島さんも私もこういった作曲は初めての経験であるから何が起こるのか、そもそも継続可能なものなのかさえ予測できず始まったものだが、3月を迎えるにあたって、私の中でさらにアンサンブルを形成することが可能なはずだという確信と、何より興味がおこったのは幸福な瞬間だったと言って良い。
 その新たな約束事が加わったことにより、さらに複雑で、高度な音楽的思索が必要になった。しかしながら、音の組織における垂直の構造が生み出す豊穣な印象は様々な結節点をそこに印しながら、未だに(2009年7月現在)その可能性と様々な変容を内包しながら現在進行中だ。
 譜面を確認しながら福島さんと私の思索の痕跡を見ていただけたなら、これ以上の喜びはない。


「即興」と「作曲」の境界、もしくはその差異、
「それは」違うのか、違わないのか、、、それとも、、、
形而上で起こることに答えなど無いとはいえ、そこに回答はあるのです。

  2009・7・15

  和歌山にて

  濱地潤一