+   《変容の対象》2018年版


楽譜 / scores
※楽譜のsaxophoneパートは全て In C 表記。
サンプル音源 / sound sample

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総括 / summary +

 作曲: 濱地潤一 + 福島諭


+ 濱地潤一より

《変容の対象》2018年版総括文


2018年は今まであまり関わってこなかった人々と接する機会が9ヶ月間ほどあった。土地柄か、そのほとんどが外部の県の人たちで、それぞれいわゆるエスタブリッシュしている(勿体ぶった言い方だがそう言った方がぴったりするような人種だ。所謂成功者であるとか、金持ちであるとかだ)人々と少しばかり邂逅する機会だった。成功者がなんたるかは置いておいて、ひどく傲慢な人(それは滑稽ですらあった)もいれば少ないがとても感じの良い人もいた。また、理解に苦しむ人もいた。総じてある種の凡庸さも持ち合わせていた。それはもっともなことだろう。そうでなければ大衆を味方につけることはできないだろうから。
 僕は芸術に身を置いているからそういう人たちにとって芸術はどうか、と気になったところだけれど、ほとんど絶望的にその「感じ」を纏った(そういう感覚は自ずと身についているものだ。嗅覚というか)人はいなかった。皆無と言って良いほどに。場所柄とても多くのそれらの人々に接したはずだが、あの「感じ」を持った人にはついぞ出会わなかった。それならば、理解者としてはどうか。またこれも皆無であり一体、芸術は誰に影響を与えているのだろうか、、、と思わずにいられなかった。経済的成功者にその要素があれば「そう」はなっていない。誰かが言った。、、、そうなのかもしれない。前述のある種の凡庸さの所以だ。いずれにせよもう接する機会などないだろう。謂わば顔のないそういう人々とは、、、という意味で。

2018年と言えば、岐阜県立美術館での発表は一つの大きな何かを、今も自身にもたらしていると言って良いような発表だった。音楽そのもの、とは別の事象でひどく気分の悪いことも伝え聞いたが度し難い阿呆は放っておくしかないので、つまりそう言った憐憫の対象者には我々は無力であると言っているに等しい悔しさはあるものの、拳を痛めるほどの労力はそれに見合わないからここは黙っていることにした。ただ人はある時は戦わなければならない。血を伴って。そこは真理であるのも事実で、その価値がなかっただけのこと,ということも言える。
 「respice finem」このソプラノ・サクソフォンとコンピュータの室内楽作品の新作の再演は、少しの音列の更新を含めて楽譜を書き直し演奏した。コンピュータリアライズは福島さんによる。サックスは全て循環呼吸奏法で演奏されなければならない。演奏後の夜、会場に来られていた作曲家・三輪眞弘さんから作品をどう聴いたか、というような内容の声をかけていただいて、僕もそれに甚だ言葉足らずではあるが作品について、対話の中から2、3の問いかけに答える形でお話をさせていただいたことは作品にとって何より吉兆だったし、「respice finem」が持っている何かがその会話から立ち上がっているように感じ、一緒に歩いていた福島さんに「これはまた、さらに更新を加えてやりましょう」と幾分上気しながら言ったのを覚えている。
 その日はまた福島諭・飛谷謙介・濱地潤一による[gp]という新しいギタープロジェクションの発表も行われた。結成時の年に福島さんだけ出演した[gp](他の2名は音源の提供のみ)はあったが年を越してその後ようやく三者が揃った発表の機会を得た。今回は福島さんはギターを持たずコンピュータ・プロセッシングを担当し、他の2名がギターを担当した。こう書きながら、その日の[gp]がどういうことを演奏し得たのか書くのはとても難しい。何度も細部を音楽用語なり、機材、その他のシステム用語を使って書こうとしても、どうもそぐわない気がして何度も書いては消した。まだうまく書けないのか、それとも言語化不可能な領域を多く含んでいるのか、そのどちらともであるのだろうが書けない。その作品、音楽を聴いてもらうしかない。そうとしか今は言えない。

その発表が終わってから岐阜の歓楽街で打ち上げを行った。前述の三輪さん、映像作家の前田真二郎さんや、池田泰教さん、音響作家のウエヤマトモコさんなどが参加して少し場を持つことができた。あの「感じ」をはっきりと纏った人たち。こ気味良い会話であったり、対象を深く見つめ捉える視座、を感じる言葉が自然に表出し交錯する光景は幻夢のようでもあった。福島さんも、飛くんも楽しそうにしていた。歓楽街の夜の淡い暖光のヴェール越しに、雑踏の中そう言った会話、対話が聞こえる光景があった。

世界は実は一つではないことは一人の人間の存在する起点のサークルによって、実は深い溝に隔てられている。そのような意識は、それを意識しなければ社会形成上機能している共同の幻想によって見えずらくはされているが、はっきりと「人種」の違いは存在(同族であっても)するし、それはあるいは避けがたい断絶を内包しているものの、コンタクトしなければその断絶を感じることもないだろう。今は2019年の2月であり、前述とはまた別の人種と交わることになっているが、それはそれで「会ったことのない」人種に遭遇し驚きを禁じえない経験もした。常に芸術が私の視座の中心を占めているが、そこにも「それ」はなく、「見えない」ものは日常に斯くも存在しているという確かな証左にもなってもいるが、「知」を得たと言ってもそれが喜びに変わるものでもない性質のものばかりで、幾分うんざりもするがその隔絶だけは何やら生命を持って、生々しく脈打っている。

前置きが長くなった。2018年の変容の対象の作品の総括に移ろう。

1月 冒頭文はなし。2018年は冒頭文を書かないということに決めていた。数年それは続いたし、意味も見出せているが年初にそう決めたことを覚えている。動機は自分から。2018年最初の作品であるし、自身の実際のアルト・サクソフォンの演奏形態の雛形の一つを楽譜上に再現するような書き方をした。動機時点でそう考え書き出しても福島さんの提示する組織によってはその方向性を変えざるを得ない場合もこの作品では頻繁に起こり、また、それがある驚きを連れてくるという、そういう構造を持っているが、この月に関しては福島さんの提示する組織とうまく自分の思考の方向性の親和度が高く、最後まで輪郭を持った意識で書くことができたようだ。ようだ、と書くのはその譜面を確認してそう読み取れるからで、記憶から零れ落ちたそれら当時の感触はもうすでに自分の中からきれいさっぱり無くなっており、この眼前の譜面だけが頼りである。譜面というメディアの強度の一つの証だと思う。

2月 福島さんからの動機。冒頭文の代わりに音の情報が提示されてい、一貫してそれが使用されている。その動機の小節を情報として見た時、選択肢の一つとして自分も音の指定、あるいは音列の指定を設定して書くこともあったはずだがそうはしなかった。結果としてその選択は良い結果を得られたように思う。音の指定によって組織された音場の際立った輪郭の構造体の中で小気味良い躍動と生命が息づいているような干渉が起こっている。その様相は今まで得られなかった「何か」を現せているようでもあり、変容の一つの成果として記憶されるに相応しい作品になった。

3月 動機は自分から。そもそもどうしてあんな動機を提示し得たのか。理解に苦しむ。失敗の最大の原因は動機にある。

4月 動機は福島さんによる。冒頭文は[leggiero]福島さんの提示した動機の組織の孕む様々な可能性の中で自分が選択したものが間違っていることだけがわかる。動機はその作品において全てを支配するほど強くその後に影響を与えることからも、その選択がついに最後まで拭いがたい散漫さを表して、この散漫さは、と頭を傾げざるを得ない。福島さんの組織に今見れば相当豊かな可能性が内包されているのを見るにつけ、残念でならない。

5月 動機は自身から。前月の散漫さの影を当月も引きずっているように見える。着想は悪くないが、それに相応しい動機の組織ではない。揺らぎやvariationに、ある種の文学的なテーゼを想定して書いてはいるが、結局その散漫さから自分が逃れられていないからこうなる。しかもその散漫さに当時は気づいていなかった。福島さんは気づいていたかもしれない。

6月 動機は福島さんから。冒頭文はなし。自身の散漫さは幾分後退したように見えるが、福島さんの全体の組織の美しさに助けられているだけのような気もする。試しに私の組織を全て消して、ピアノのみを演奏して聴いてみてほしい。

7月 動機は自身から。散漫さは幾分後退してはいるものの、全体は精彩を欠く。悪いと言い切るほどではないが1月、2月のような「何か」が息づいているというような気配はない。福島さんの組織はどの月でも常に安定した様相を見せていることから、自身の何かが影響しているのは明らかで、こう書く前の段階でその原因はわかっていた。譜面の上で起こっている現象と結果がこうもあからさまだと誰でも気付く。追って書くことになろう。自分の組織は当月は少し持ち直してはいるものの、凡庸な組織でもある。ため息しか出ない。

8月 動機は福島さんから。冒頭文はcon melancoliaとある。冒頭文が指し示す概念と福島さんの提示する動機からの組織によって視界が明るくなったはずだ。3月からの散漫さはここでは見えない。惜しむらくは5小節目の自身の組織の選択にやや不満は残るが全体としては細部に手を伸ばそうという意識も見える。1月、2月の領域には届かないものの、平時の変容の姿を取り戻しているようにも思えるが、もしかするとひどいものの中であるからそう思えるのかもしれない。先日の福島さんとの電話の中でも今年の総括文はそれが最大のテーマですと3月~11月の作品の「酷さ」(自分の組織)を自嘲気味に話したが、今年の総括文はちょっとうんざりしながら書かざるを得ない。

9月 動機は自身から。一体誰が書いたのだろう、、、完全に頭から抜け落ちている。奇妙な組織が続いていて中でも2小節目はどうも気に入らなかった。全体に何かグロテスクな混沌さがあって、その歪みに少し興味は惹かれはするが、その先に何か見えるわけでもないようだ。記憶の片隅に最後の小節だけ朧げにある。変容では総括文を書く際、全く覚えがない作品がたまにあるがその理由は未だ分からない。

10月 動機は福島さんから。冒頭文はなし。当月も福島さんからの動機にうまく自分が応えられていない。全体に弛緩した組織に始終埋められている。精彩を欠くものがこうも続くと気も滅入るが、福島さんはどうなのだろう。

11月 動機は自身から。福島さんの動機の律動の提示があってその後を牽引している。散漫さはないように見える。少し光明が見えてきているのだろうか。

12月 動機は福島さんから。3月から11月までのものとは別物のような作品になっている。安堵する。提示された動機にどう書けば良いか随分煩悶した記憶があるが、ふと何かに触れた気配がした応答の書き出しだった。その気配は微かな、微かな振動をこちらに伝えるに過ぎないものだったけれど、その後の福島さんの組織のある局面、ある局面の結節点の提示からの相互干渉を通過して静謐な緊張が張り巡らされている様相は全体に息づいて通底している。そこに在るのは覚めた意識であり、輪郭のあるそれを意識し、その内部に入り込むことが可能な機会が在った証でもある。

後記  3月から11月の自身の組織の散漫さはその意識の有り様の散漫さと言うことができる。そこに在るのは音符という記号の集合体、その集合体の向こう側に、そこにあった意識、思索、概念の痕跡が見て取れる。問題にしているのはその音符が形成する構造体そのものだけではなく、それよりはるかにその意識の有り様と「動き」が気になった。この総括文を書く前に一度譜面をざっと確認したのだが、3月から11月があまりに酷いのでしばらく手につけることができなかった。これは《変容の対象》を始めて10年になるが初めてのことだった。理由ははっきりしていて前述の冒頭で「今まであまり関わってこなかった人々と接する機会」という時期と見事に一致している。ああいった環境に身を置くことが、こうも作品に影響を与えるというのは自分でも意外であったし、全く想定していなかったので驚いたが、眼前にはっきりとその痕跡が刻まれているのを見ると異論を差し挟む余地はなく、それは「そう」としか言えない。「そこにもっと自覚的にならなければいけない」。譜面にそう言われている気がした。

 おそらく前年とは別の状況で今(2019年)の最中に居るが、前年の反省から自覚的に忌避すべきポイントを避けて年初から《変容の対象》2019年度版を書いている。今は4月で今日8日は4月の最初の動機を福島諭さんに送ったばかりだ。1月から3月の作品に於いて昨年(2018年3月~11月)のうんざりするような現象は今の所起こっていない。あれは一体何だったのか。答えはわかりきっているがそれを言ったところで救われないなら無言を貫く方が良い。そういう状況に常に両足を突っ込んで逃れられないのは僕も福島さんもわかっている。何故こうも煩わされねばならないのか、と思わない日はないがそういうものだと諦念するか、あるいは静かに怒りを抱え込んでそれが発露されるのをなんとか封じ込めるより他に生きる術がないとなれば、と考えつつもそれをいつしか忘れて、疲弊した日々に埋没してゆく。出来うれば今この瞬間にでもそこを飛び出して、、、と思わないこともないが、ランボーの「光り輝く忍耐」がもしこういうものであるなら、それを意識することなく生きていける方がよほど良いのだ。

今年から来年にかけて、継続的に《変容の対象》にもはっきりとした動きがある。一筋の光明である。

2019年1月から4月にかけて記す。濱地潤一






+ 福島諭より

《変容の対象》2018年版総括


 2018年の《変容の対象》の12曲作曲も「無事に」完了することができた。「無事に」とは書いたが《変容の対象》でその作曲自体が危ぶまれるような状態はなく、10年目の作曲行為はむしろ安定の域に達して成り立っていたとも言える。ここへきて《変容の対象》は、社会の情勢や私生活上の状況、そして個人の感情などにほとんど直接的な影響を受けることもなく、生成され続ける作曲行為となっている。影響を受けるとすれば、《変容の対象》の中でこれまで培われてきた作曲上の経験の中からのみであるかもしれない。極端にいえば、《変容の対象》は《変容の対象》自体の経験(各曲の相関関係から判断される)という日常生活とは切り離された別の経験を持ち得てきた、とも言えるだろう。作曲者である2人が健康を保ち、情報共有の環境を持ち続けられるなら今のところ作曲行為に対する危うさは感じられない。
 しかしながら一方で、作曲行為の継続、創作自体へのその必然性を持ち続けるという部分は今後もずっと揺るがないものである、などという保証はどこにもない。個人的には2018年はそんなことを強く意識した年にもなった。考えられる原因はいくつかあるが、そのひとつは身体の変化だった。食事の吸収力が減ったのか、血糖値を上げたくないと思いに駆られて極端に糖分をとらないようにしたのがいけなかったのか、2018年の前半は体重が随分と減ってしまっていた。最初は笑ってもいたが、ある頃からこれは痩せていくのではなくて老化、大袈裟に言えば身体が朽ちはじめているんだというように感じられ、笑い事ではなくなった。すぐに風邪っぽくなったり、時季外れのインフルエンザにもかかったから基礎体力の回復は切実なものになった。
 もうひとつは実生活での環境の変化が上げられる。2017年1月からフリーとなったが2018年の5月頃から新潟県加茂市にあるG.F.G.S.に参加する事になった。G.F.G.S.とはこれまでCDのレーベルなどとしてお世話になっていたが、実際に参加する中では自分にとってこれまで知ることのなかった業務も多く、それを上手く自分のものにしていくにはある程度時間が必要だとも感じられた。今の世の中にあってG.F.G.S.の環境自体は希有な、恵まれたものでもあるとも思うから、今後自分の活かせる領域も広げていきたいと感じている。
 そんな日常の基盤を成す生活の上に、発表の機会を作る。地元の新潟では春から夏にかけて「周辺の音楽」というトークと発表を兼ねたイベントをシリーズで行った。ゲストは尺八の福島麗秋さん、トラックメーカーのPALさん、映像作家の池田泰教さんなどにご参加いただいた。自分自身得るものの多かったシリーズで今後も継続を考えている。9月は、美術家の高橋悠さん+高橋香苗さんと映像作家の遠藤龍さんに尺八に福島麗秋さんを加えたイベント「RGB」を去年に引き続きおこなった。今回はNoismの芸術監督である金森穣さんが飛び入りで私の即興演奏の中で同じく即興で踊るというサプライズがあった。視覚的にではなく、音の振る舞いを通して身体の反応が直接返ってくるような、気の流れに満ちた時間が強く記憶に刻まれた。また、同じく9月は岐阜のサラマンカホールでトランペットとコンピュータのための新作を初演する機会もいただき、作曲に全力を尽くした。その関連イベントとして岐阜県立美術館のエントランスでトータル50分程度の演奏の機会もあり、そこでは《patrinia yellow》('13)の再演の他、尺八との《季鏡》、濱地潤一さんとの過去作《respice finem》の再演、そして濱地潤一さんと飛谷謙介さんに私を加えたユニットgpの3人での演奏も行う事ができた。特に濱地潤一さんの気力に満ちた演奏には大変刺激をいただいた。  新潟の秋は音楽会も数多く行われるため、ここ数年の経験から自主企画はひかえるようにした。しかしながら、2018年の秋は何故か声をかけていただく機会が重なり10月~12月をかけて即興で演奏を行う機会が続いた。PALさんの結婚式の披露宴にて、尺八(福島麗秋)と10分程度の新曲を発表し神妙な気持ちをいただいた。東京の経堂にあったギャラリーappelでその昔Mimizなどで大変お世話になったtaxxakaさんが新発田で展示をするというのでお声がけいただき再会・演奏したのも感慨深かった。またHaloキャンドルを主催する小林忍さんからのお声かけで参加した、創作キャンドルとコンピュータを使った即興演奏の機会は、会場の入船うどん屋さんとその周辺の雰囲気も独特で面白く個人的には新たな発見だった。新発田のgallary 3+4 creativeで年末に行われた「coffee and music」というイベントではギャラリーの5周年や演奏したchiaki itoさんの還暦祝いなど一年を締めくくるに相応しい祝祭に満ちていて印象に残った。
 発表の機会の他に、トランペットとコンピュータのための新作《crack》の楽譜作成やその他創作をまとめるためのいくつかの作業は2019年に持ち越されてる。ゆっくり時間をかけて制作されるべきものへのモチベーションを2018年の後半には保つことが難しかった。2019年ではそのバランスを取り戻さなければいけない。それがどのように可能になるのかはよく分からないが、映像作家の池田泰典さんや、作曲家で奏者の濱地潤一さん、タイポグラファーの小泉均さん等と少しでもやり取りをする機会があったりすると気持ちのバランスが調整されるように感じたりもする、というのが最近の実感であるからこの辺りに答えもあるのかもしれない。
 以下は《変容の対象》2018年版の各曲への但し書きである。一年を通して個人的には2018年12月にもっとも強い創意を感じるが、これは濱地さんの感性に負うところがあまりにも大きい。私自身は多くの割合で頭に浮かんだ旋律線をなぞって音符を書く機会が多くなった。ほとんど同じ旋律を想起しては当てはめていたようにも感じられる。こうした事は《変容の対象》初期では起こらなかった事でもあるが、2018年のpianoはほぼ一年を通して類似する旋律の変奏をしたような印象でもある。濱地さんはほぼ冒頭文を使わず、福島も割合としては減り、使っても情緒と関わる創作的な文章の使用は避けている。

■1月  濱地潤一さんの第一小節目から開始されてる。全体的な印象は、モノクローム、高速と低速の対比、カタストロフ、断絶、沈黙。高速で上昇するアルトのパッセージの連続にピアノはゆっくりとした響きの推移によって対比する。当初濱地さんからのパッセージを軽く分析した資料は残っていたが、時間の都合もあり明確な対処を導き出す前に書き出している。ピアノはタイで音の長さを繋いで行き、横の流れで響きを組織することに意識的だった。通して聴くと、7小節目からピアノの連打音がそれまでの流れを断ち切っているようにきこえる。全体のバランスが崩れ9小節目後半のアルトの沈黙、10小節目に突如現れる旋律の断片、ピアノは重く低音を鳴らし終わる。この最後のピアノの振る舞いは2018年12月の終始と類似している。12月作曲時はこの1月のことは全く忘れていたにしろ。

■2月[F Fis Ais Gis H A][Cis Dis D E F Fis] 福島諭の冒頭文と第一小節目から開始。伸縮、音列的。冒頭文は各6音の音列2つを差し、合計で12種類の音で重複はしない。ピアノの譜面を見るとオクターブの変化は同一音と捉えている小節もあるが、基本には逆行などない音列の順行のみによって組織し、小節内の音列のサイクル数の変化とリズムのコンポジションによって成り立たせようとしているが、中盤過ぎには限界が感じられる。サクソフォンとも音の密度の高くなる中盤には可能性を感じる響きも見られるが、音列にとらわれてピアノがサクソフォンを聴いていない感じが多く良くないのではないか。

■3月Allegro (四分音符 = 120)  濱地潤一さんの第一小節目から開始。連打、間、大きなギア、短いモチーフ、小さなギアの絡み合い。濱地さんからのモールス信号のような無機質な動機に福島の返答は和声的な色彩を与えているがそこにあまり必然性が感じられない。濱地さんの期待するようなものではなかったのではないかと思われる。Allegroとついているが、それらしくなるのは中盤からで前半はやや中だるみしている様にも感じられる。ただ、2分を過ぎてからのサクソフォンの勢いが増してからは楽曲の相が変わる。それを受けてのピアノの長いソロはそのままテンションを保ちつつ進み、終盤は両楽器の歯車がぴたりと揃った後にやや惰性で解けて終わる。長いが序盤のテンションからここまで変化するのも珍しいとは思う、システマチックな良い生演奏で聴けたらとも。

■4月leggiero  福島諭からの冒頭文と第一動機。leggieroは「軽く優美に」などを示す。流れと停止、穏やかな停滞。冒頭ピアノのテーマらしきものには既聴感もありあまり適しているとも思われないが、その後このテーマに戻ることもなくどんどん散文的な方向性に流れる。ピアノは右手と左手にそれぞれ一音が充てられるスタイルで一貫しているので、元々は横の流れを意識していたのかもしれないが対位法的な豊かさには向かっていない。全体的な拍感も大きく変化することはなく、一部分に納まっている。第一小節目だけが何処か異質なものになっている。

■5月  濱地潤一さんの動機から。重厚、色彩、下降、静寂。冒頭の濱地さんからの動機がユニークで、動機の断片はその後の楽曲中にも各所で散りばめられている。ピアノは先月から対比のある和音を重ねる伴奏的なアプローチになっている。場面が変わる度に音の密度、そして拍感も減っていくような展開が漠然と停止を予感させる。ピアノは作曲時に頭に浮かぶものを優先的に選ぶところから始めていたような気もするがはっきりとは覚えていない。

■6月estitato 二分音符 = 70  福島諭からの第一動機。estitatoは「美しく」などを示す。静、高、大気、揺らぎ。ピアノはタイを多く使用し、ピアノ自体の響きを視野に入れている。ピアノが高音になることを予想してか、アルトサクソフォンを指定している。濱地潤一さんからの楽器の変更希望はなかった。7小節目に同じ和音の連打だけが異質だが他はほぼ一貫したスタイルとなっている。ピアノ自体の残響が充分きこえる静かな空間で生演奏で聴きたい。

■7月  濱地潤一さんからの第一動機。疎密、動、リフレイン、唐突な終始。第一小節で答えたピアノの動機には2種類の性質のものがあり、これは濱地潤一さんからの第一小節にも見られる疎密の動機とも対応するものだと感じるが、その2種類の性質の配置に重きを置いた構成に聞こえる。大きく踏み越えて展開するようなことはない。ここまで長めの曲が続いたのでこの月はやや短く聴こえる印象。

■8月con melancolia 二分音符 = 40 福島諭からの第一動機。con melancoliaは「憂鬱に、暗く悲しげに」。黄昏、追憶。確かこの第一動機はピアノに向かい手書きで音を選んでいる。その後も数小節の間はピアノに向かって楽譜に手書きしてから返答していた。濱地さんからの返答に対しても時間をかけて練ったことになるかもしれない。ただ、後半はいつものように一筆書きのような作曲に戻った。それが結果に出ているかと言えばどちらとも言えない。何故、この月に憂鬱とも言える響きを選んだのかは今となっては分からないが、音楽が情感に作用するという可能性について、それは当たり前のことと思われるかもしれないが、結局受け手の主観と関わる問題なので個人的には長年遠ざけてきた問題でもある。しかしながら、2018年はそうした問題と関わりを持つべきにも感じた年だった。この8月の「con melancolia」も実際やや憂鬱に聴こえるかもしれないが、実のところ作り手側にも聴き手側にもそうさせている客観的な理由や保証は何もないとも言えるのである。

■9月  濱地潤一さんからの第一動機。速度記号以外は指示はない。重厚、光彩、風、独白。一小節の持つ時間が長いのでそこそこの長さはあるが、やり取り自体の回数は多くはない。ソプラノサクソフォンもピアノも半音階的に色彩を変える冒頭が印象的。その後のピアノは手癖的な書き方になっている。毎回出てくるような響きが見られる。そういうことが直接の原因かは分からないが7小節目にピアノの音は一音も書かなかった。唯一印象を新鮮なものにしている箇所かもしれない。

■10月  福島諭からの第一動機。この月から楽想への指示もなくなった。流れ、作用、波に呑まれる、失意。冒頭の動機は長調的な少しアッケラカンとしたものだ。それがやがて抗えずにいつもの領域に戻されるように響く。途中からはもう別の楽想へ向かっている。中盤からはもう冒頭の動機を忘れ去っているようだ。悪いとも言い切れないが、これといって新たな領域も無いまま時間は経過してる、今聴くと濱地さんのアプローチする期待に答えるような世界に到達できずに閉じられているようでもある。

■11月  濱地潤一さんからの第一動機。四分音符=180の早い楽想のため、楽譜上は8分音符くらいが最低音価となり見やすい。ピアノの低音部のラインとソプラノサクソフォンのラインとが呼応するようなところが多く見られ、左手の動きに意識的に作曲が行われている印象がある。やり取りの回数は平均的だがテンポが速いために曲の時間は短い。サクソフォンとピアノの対話は完全ではないにしろ、かみ合っているように思える。それはこの楽曲が何を表しているかとか、どのような情感に近いだとかいう話の以前に音楽的な構造に支えられて組み上がっているように見受けられるからでもある。

■12月  福島諭からの第一動機。10月1日に岐阜県大垣市に行く機会があり、その夜に詩人の松井茂さん、映像作家の前田真二郎さん、サウンドアーティストのウエヤマトモコさんと話をする機会に恵まれた。話は多岐にわたったが、かつて武満徹がベートーベンの「運命」の動機に吃音的な振る舞いを見出したことなども語られたのを記憶している。ピアノの第一動機は16分休符が置かれた音数の少ないもので、ピアノの右手は以降もほぼその形を守っている。一方左手はテンポに対してジャストに打鍵されるが、楽譜がなく聴いているとするならばどこが強拍か分からないほどにピアノの音数は少ない。一小節目の動機を送ったあと、濱地さんがどのような返答をされるか想像もせずに送った。数日して戻ってきた動機には新鮮な驚きがあって、このまま進めると確信したのを覚えている。

 2018年版の一年を通して聴けば、ピアノの音数は極めて少なく物足りない印象もあるかもしれないが、作曲当時は充分過ぎるほどに音楽的な密度を感じながら進めた。力業ではなく不思議な推進力を持った構造になっていることが喜ばしい。

2018年の主な活動を以下にまとめる。
■03月31日-04月01日櫻井郁也様ダンス公演(Plan-B)への楽曲提供(既存曲)
■05月27日_[周辺の音楽]_vol1(福島諭+福島麗秋)
■06月30日-07月01日_[周辺の音楽](vol3+vol4_Palさんの会)
■07月02日_J-Wave_RadioSakamoto_(変容の対象2017年9月)
■07月14日_水と土の芸術祭出品作_吉原悠博「新川史眼2018」への音付け
■07月28日-07月29日_[周辺の音楽](vol5+vol6_映像作家・池田泰教さんの会)
■09月01日_RGB2[高橋悠+香苗、遠藤龍、福島諭+福島麗秋]
■09月02日_岐阜県美術館にて演奏
■09月07日_J-wave_RadioSakamoto《季鏡》('17)
■09月09日_ぎふ未来音楽展@サラマンカホールにて《CRACK》for a Trumpet and Computer(2018)を初演
■10月01日_IAMASキャリア講師
■11月04日_PALさんのご結婚式披露宴にて福島麗秋(尺八)と共に演奏
■11月11日_Taxxakaさん展示関連で演奏@Gallery3+4
■11月17日_G.F.G.S.イベントにて即興@りゅーとぴあ能楽堂
■11月24日_haloキャンドルの小林忍様企画にて演奏
■12月22日_『coffee&music』伊藤知明さんと即興@Gallery3+4


【文章・楽譜関連】
■02月04日_shimaf個人web公開 ■03月03日_個人DMハガキ作成
■03月16日_Noismへの文章書く


2019年1月3日(木)から1月14日(祝月)までに記す 福島諭