+   《変容の対象》2010年版


楽譜 / scores
※楽譜のsaxophoneパートは全て In C 表記。
サンプル音源 / sound sample

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総括 / summary +

 作曲: 濱地潤一 + 福島諭
楽譜清書協力: 唐沢貴美穂


+ 福島諭より

総括文 《変容の対象》2010年版
2013年の夏に《変容の対象》のwebを制作しようと作業を続けていた。その際、各年の総括文を改めて確認したが2010年版に対するものだけ見つからなかった。濱地潤一さんとのメールのやり取りを確認してみても、総括文自体の話題が出てこない。2011年の前半は濱地潤一さん作曲の《contempt》の楽譜をまとめ、東日本大震災、他いろいろなことが重なった頃で、とりあえず期限のない《変容の対象》の総括文は後回しになっていったのかもしれない。しかし自分としてはまとめておいたつもりでいたのでおかしいとなかなか納得できずもう少しメールを調べてみると、2011年12月28日のメールに以下のような内容があった。


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差出人:fukushima satoshi
件名:Re: 「変容の対象」2011・12月第8-9小節目です。福島です。
日時:2011年12月28日 13:34:27JST
宛先:hamaji junichi

濱地潤一さま

変容ありがとうございました。今晩中には送れるように作業します。

さて、変容も3年目になり、楽譜の件も遅れていて申し訳ないのですが、楽譜に必要な資料は今年も作っておきたいと思っています。

3年目の今年の変容を振り返って総括のようなものを今回は濱地さんと僕とでそれぞれ書いてみてはどうだろうと考えています。年末年始、お忙しいかと思われますが、時間のあるときにご検討ください。
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てっきり毎年恒例と思い込んでいた2人の作曲者による総括文は3年目の2011年版から行われたということだ。そうなると、もともと2010年版を総括する文章はないことになる。書き終えた後すぐではないので細部は忘れてしまっているだろうが、より客観的な聴き方はできるかもしれないと思い2013年の8月に2010年版の各曲に対してどのような印象を持つかを記しておく。(又、以下の総括文に続いて2010年12月20日に書かれた《変容の対象》の約2年分を総括するような文章が見つかったので参考文章として転記しておく。)


《変容の対象》2010年版

1月
初年にあたる2009年の第一動機が福島から始められたことを受けて、2010年の最初の動機は濱地潤一さんからはじめてもらう事に決めていた。元旦に送られて来た第一動機に対して同じ日に福島も返信している。やり取りは13小節まで続いている。pianoの和音は今聴くと丁寧に響きを選んでいるように聴こえる。楽曲全体は透明感のあるゆったりとした様子で《変容の対象》の初期には割合によく現れた質感だが、その中では統一感のあるほうだと思う。

2月
pianoは珍しく音数多く響きを作っている。基本的には右手で2音の連打とそれに絡まるように左手のラインがわずかに響きを推移させる。それに対する濱地さんのフレーズも軽快で楽曲全体としても明るい印象に満ちている。

3月
濱地潤一さんから第一動機は非常に美しいものだ。それに対する福島の返答はなぜか和音を使わず単音のみ、音価も付点2分音符と長いものが使用されて2小節目まで終始貫かれている。おそらくそれを見て濱地潤一さんは2小節目の途中から意識的に音数を増やす方向に転換していると思われる。楽曲はやがてpianoの音価が短くなっていき、saxophoneの旋律と対等に絡まり、濱地からの9小節目を受けて崩壊するように10小節目で終わる。

4月
ここでもピアノの扱いは和声的というよりは旋律的な扱いが高い。全体的に高音に音が集まっている。楽曲の最初は具体的で簡潔な3和音で構成されたもので印象に残るが、結局中盤から最後までそのような世界には戻らずに楽曲は進んでしまう。答えのない問いかけを唐突にぶつけられたような不可解な印象を持つ。2013年現在では決して選ばない組織だと感じるが、おそらくこの時点では何が正解で間違えかも分からない状態だったのだからとにかくやってみたというものを感じる。そうすると、これは間違いなのだろうか。現在では自然と選ばなくなっている貴重な領域の記録とも言える。

5月
全体には何かのモードを意識させる構造を感じさせる。濱地潤一さんからの第1小節目の動機はこれも味わい深いものだと感じるが、ここでもpianoは単旋律で応答している。ある種の構造に縛られつつも感覚的にその形態を変えている。saxophoneの変化の自由度に比べるとpianoは何か頑に縛られている。こうした、ある種のモードか音列が楽曲を支配する形態はこの後も《変容の対象》では多く見られる。それらを念頭に置けばそれほど密度のある楽曲とは言えない。同じ試行錯誤ではあっても、その後選ばれなかった4月のアプローチに比べ、5月の試みはその後も頻繁に試みられているものだと言える。

6月
pianoのポリリズミックなアプローチにsaxophoneも同じ音価の旋律線で答えている冒頭から、終始基本的なビートを変えず進行していく。2月に見られたようなアプローチのまた別の形かもしれない。非常に色彩的な展開をしている。終止に向う掛け合いも緊張感を保ちつつ丁寧に作られている。

7月
濱地潤一さんからの第一動機は4分の83拍という長大なものだった。その頃、濱地さんが書かれていた楽曲の動機がそのまま採用されている。約2週間かかってそれにpianoの伴奏を書いた。稚拙な伴奏だが色彩の変化について何か今よりも追求心をもって書いているようにも思われる。その後の展開は濱地さんの意図するものになっているか分からないが、楽曲自体は旋律の主従が頻繁に入れ替わる《変容の対象》らしい特徴が現れている。

8月
明るさを保ちながらも、どこか物悲しい。そんな曲想に聴こえる。楽曲は9小節目で唐突に途切れる。pianoとsaxophoneは極端な裏切りもなく、安定した対話を続けているように思える。停滞なく細かな変化が上手く楽曲を運んでいく印象があり、これも比較的珍しいものといえる。これは、この一ヶ月間を通じて常に同じ態度で作曲に臨むということでもあり、自分自身の精神状態をあまり大きく変化させないという事でもある。両者がどちらもそのような状態で作曲するということはまたさらに珍しいことでもある。2011年の8月にも印象的な楽曲が生まれているし、そう考えると8月は比較的親和的な対話が行われやすい時期なのかもしれない。

9月
濱地潤一さんからの第一動機は分裂的なものと旋律的なものが組合わさったもので、pianoもそのように応答している。リズム的なものと和声的なもののアプローチが具合よく組み合わされている印象を持つ。楽曲はどこへ向うか迷うような素振りを何度か見せた後ようやく終止する。

10月
pianoの印象的な冒頭から始まり、2小節目に入る直前にsaxophoneが入る。ゆっくりとした動機と動きのある動機が対比的に組み合わされている。5小節目後半からsaxophoneの早いパッセージが影響して一旦別のシーンへ向うがまたすぐに冒頭の印象へと収束していく。

11月
濱地潤一さんからの分散的な動機を受けてテンポも速く展開していく。一般的な意味での和声としては、中間部の一時を除いては両者はほとんどかみ合う事なく進行していく。唯一リズムはお互いのアプローチに合いの手を入れるようにかみ合っているように書かれている。こうしたアプローチは翌年の2011年8月にひとつの到達点を見たと思うが、それと類似した要素を多く含んでいる曲だと感じる。

12月
一年を締めくくる月ということもあり、毎年思い入れの強くなる月である。初年の2009年は濱地さんからの動機だったのに対して、福島からの動機による。やや軽快なポリリズミックなpianoのアプローチをこの月もなぜか採用している。13小節目を契機にして旋律と和音の調和が強くなる。色彩的な揺らぎを持ちつつ到達点へ向って収束していくような印象の終止はこの年の《変容の対象》には頻繁に現れた態度だったように思う。



こうして久しぶりに2010年を通して聴いてみると、想像以上に色彩やリズムに溢れている組曲となっていたことに驚いた。そうした印象の原因の多くは福島からのアプローチに起因すると考えられる。2013年8月の現在から考えると、pianoの色彩感に関してはおそらくこの2010年が最も工夫を試みていたとも言えるだろう。しかし、この明確な目的を持たない明るさや色彩は今にしてみればやや軽薄とも思えるし、それ故の憂いをここから感じざるをえない。
しかし、その後の《変容の対象》で繰り返し試みられてきている領域の萌芽となるようなものがいくつか見られたのは興味深かった。完成度としてはまだまだで試行錯誤という感じが否めないにしろ、そこから可能性があると判断された表現は自然と後の月にも似たような姿で再び現れてきているという事だろうし、そうした意味で《変容の対象》らしい表現というものがおぼろげながら芽を出し始めた年とも言えるのではないだろうか。
一方で、この年に試みられたアプローチの中には、その後は影を潜めていった表現もある。それにはそれなりの理由があるだろう。また、ここで現れている軽薄な明るさに対してはもう遥か昔の出来事のように感じざるを得ない現在の状況があり、その分断を思うと何とも言えない気持ちになる。

2013年08月5-6日に記、13日に一部修正 福島諭




+ 参考文章 2010年12月20日 記。

2009年版の《変容の対象》の楽譜のレイアウトがほぼまとまった。 まだ微調整とフォントの変更などは必要だが、ようやく形になってきてうれしい。トータルで33ページになった。

《変容の対象》は1月に1曲を完成させ、1年間で12曲の小品を交換作曲していくもので、最終的にはその12曲を組曲としてまとめる。2009年の元旦から開始され、2年目の2010年ももうすぐ終わろうとしているが、順調に続いており、今月の曲の完成を待てば24曲目の小品を作曲してきたことになる。

作曲の指定は五線譜によって記録できる情報を前提にやり取りは行われてきた。和歌山、新潟という物理的な距離の問題が大きいのだと思っていたが、ここまでやってきて別の意味も感じるようになってきている。

結局この2年続けて作曲していて自身の書いてきたピアノパートを見直してみると一貫して踏み越えなかった一線がある。それは人間の身体的限界を明らかに超える表現を採用するか否かという一線だった。当たり前に思えるかもしれないが、しかしこれは今のこの時代にあっては決して当たり前のこととも言い切れない。私自身が演奏する事が難しい表現は当然あるが、訓練された身体であれば大概の演奏者には演奏可能であろう範囲には留まっている。
つまり、《変容の対象》は人間によって演奏されるという事を前提に作曲され続けてきたしその一線を結局超える気配はとうとうなかったといえる。

五線譜で作曲するという事の意味は次第に変化していくかも知れないが、五線譜の作曲作品の演奏によって表出されるものは、突き詰めてみれば身体的な緊張と緩和の身体情報そのものであるかもしれない。音楽によって放たれた身体情報が聴き手との同期同調を導くというという事は、経験的に多くの人が知っている事ではないだろうか。

だからこそ非身体的な、しかし聴き手の身体に効果する表現を扱うということの差異にもいっそう意識的になるべきなのだろうけれど。

一方で《変容の対象》シリーズの音源化にあたっては実際の演奏録音は行わない方針でもある。サンプリング音源を使用したMIDI演奏によるものになる予定だが、ここで最終的に扱うものは身体的な情報に関わる表現を含んでいなければ決して成功とはいえない、という少し倒錯した状態にはなるにはなるが記録メディアを扱う表現においてはそれは可能でなくてはならないことでもあるだろう。


2010年12月20日記 福島諭



+ 濱地潤一より   

《変容の対象》2010年総括文(回想)


今は2014年1月。2010年の《変容の対象》について回想したい。福島諭さんから2010年の12作品について何か書いてほしいと言われたまま、随分と時間が経過してしまった。本来は2010年が終わった後、総括文を書いたはずだが、福島さんのもとにも、自分のもとにもその文章が無い。今となっては記憶が確かでないが、書いたような気もするし、書かなければと思いながら書いて無かったのかもしれない。そんな話をしたまま、今まで書かずにいた。2010年当時、2年目になる《変容の対象》。その時はまだ初演にかけることをお互い知らない。一昨年、昨年と我々の作品が奏者によって演奏されることを知らない二人が書いている作品を今からその譜面を見、何かを書こうとしている。時間の層の異なる同一人物がそれを見ると言えなくもない。

1月。動機は自分から始まっている。前半は息のながい旋律が支配し、当時神秘的な響きというものに惹かれていただろうことはこの譜面を見てもわかる。中盤からはその意識の流れは切られ、それはおそらく福島さんの組織にも影響されながら分裂的に構成は変えられていっている。今ならこうは書かない。絶対に。と言えるものだが、当時の自分はこう書かなければならないと思って書いた。

2月。この作品にはある切迫した何かを感じる。サクソフォンの旋律はピアノに寄り添っているようでいて、意識はそこには居ないようにも思える。自分は《変容の対象》を語るときに、ふたつの脳が走る、、、といったような言い方をよくするのだけれど、ある見方をすれば、それが鮮明に出ているように読める譜面なのかもしれない。その切迫した何かはきっと変容故の構造的なそれだ。

3月。構造的には1月と通じるような構成に落ち着いているが、後半は僕は変化に苦心していたのではないだろうか。その変化は表層的で、深いところから出てきているそれではないように見える。

4月。2月とは違って最後まで断層や乖離、歪みはうまれていないようにも見える。変容ではこちらの方が稀なのではないだろうか。そういう意味でも印象に残る。

5月。歪みの均衡、、、2013年12月に冒頭文に書いた「概念」が脳裏を過る。均衡する歪みの運動体、ピアノ、サクソフォンが描くシナプスの解像図。変容でしか表出し得ない何かの萌芽がこの頃から起こっているのかもしれない。

6月。福島さんによる動機に僕はうまく応えられていない。それが全てのように思う。

7月。4分の83拍子。長大な拍子の表記は変容では珍しくはないけれど、これは長い。当時僕が書いていたサクソフォンのソロ作品のための動機をそのまま使うという手法をとってみたくて採用した。全音音階の響きに固執するようなそれは今思えば概念的に弱い。変容では年々概念の構築、着想の根拠となるそれを豊かにするために様々な手法をとるけれど、これは単一的でやや平板な印象をもつ。それでも後半の福島さんのピアノのアルペジオからのアプローチは美しい何かを留めている。

8月。1小節目が全てではないだろうか。それがfineまで意識の継続性を支えた。おそらく。

9月。翌年の2011年の8月の作品は我々にとって特に印象深い作品なのだけれど、その前年の9月と11月の作品に1年後のその作品の萌芽が散見されるのはとても意外な感じがした。と言うのも、福島さんに、遡って2010年の総括のようなものを書いて下さいと言われるまでこの年の譜面を見ることが無かったからで、2013年に久しぶりに見て細部に見えるそれら「部分」は、まるで引用しているかのように見え、驚いたのだった。同じ人間が書いているのだから、、、といったレベルのはなしではなく、うまく言えないのだけれど、細部とその背後に在るナニかのことなんだけれど、、、

10月。この年の僕の採用する手法は同一のものに固執する傾向にあるようだ。この年は月をまたぎ何度も同じ思考で組織している。良い悪いという判断基準にはのせられないのだけれど。それはfineを迎えるまで自分たちにも何が起こるかわからないわけなので。

11月。上述の9月の作品について書いたものを参照して下さい。9月の作品より、さらにこの11月の作品はそれが際立って表出されています。

12月。不思議な味わいのある作品。中盤からfineにかけてなにか起こっているような気がする。それは控え目で少しわかり難い変化に似たそうでないもの。

2014年1月16日。午前5時31分。記。
濱地潤一